
マンチェスターの綿工場で働く子どもたち(1840年)
出典: Photo by Auguste Hervieu / Wikimedia Commons Public domainより
産業革命の時代、イギリスの工場には大人だけじゃなく子どもの姿も当たり前のようにありました。マンチェスターの綿工場では「スカベンジャー」と呼ばれる子が床に落ちた綿くずを拾い、「ピーサー」と呼ばれる子が糸を結び直す──そんな風景が日常だったんです。
「なんで子どもまで?」と不思議に思うかもしれません。けれどもそれには、この時代ならではの厳しい事情があったんですね。この記事では、産業革命期に子どもが働かされた理由、その働きぶり、そして社会に与えた影響について見ていきましょう。
|
|
炭鉱の扉番を務める少年(1842年)
小さな体を活かして坑道の扉を操作させられていた。
出典: Royal Commission of Inquiry into Children's Employment / Wikimedia Commons Public domainより
まずは、どうして大人だけでなく子どもまで工場に駆り出されたのか、その背景を探ってみましょう。当時の社会には「子どもだから守られるべき」という考えよりも、「家族の一員として役割を果たすべき」という感覚が強かったんです。
当時の労働者の賃金はとても低く、大人ひとりの稼ぎだけでは家族を養うのが難しい状況でした。食べるものや住む場所を確保するためには、とにかく家族全員で稼がなければならなかったんです。そこで子どもも工場に行き、わずかな賃金でも家計を助けることになります。
「家族みんなで働かないと生きていけない」──これが当時の現実でした。子どもも家計を支える大切な担い手だったんですね。
工場での仕事は、大人では手が届かない部分や体が大きすぎて入り込めない隙間での作業が多くありました。そこで重宝されたのが子どもたちの小さな体です。例えば機械の下に潜り込んで掃除をするスカベンジャーや、切れた糸をすばやくつなぐピーサーといった仕事は、まさに子どもならではの役割でした。
工場主にとっては「安くて便利な労働力」であり、しかも言うことを聞きやすい存在。こうして子どもたちはどんどん労働の現場へ引き込まれていったんです。
当時は義務教育の制度がまだ整っておらず、多くの子どもにとって勉強より働くことが当たり前でした。家計が苦しい家庭では「学校に行かせる余裕なんてない」というのが普通だったんです。
そのため子どもの未来より今の生計が優先され、教育を受けるチャンスを失う子どもが大勢いました。産業革命の光と影がくっきりと表れる部分のひとつが、まさにこの児童労働の現実だったんですね。
マンチェスターの綿工場で働く子どもたち(1840年)
ミュール紡績機の下を掃除する子ども(スカベンジャー)と糸をつなぐ子ども(ピーサー)の様子を描いた同時代の挿絵。産業革命期の工場で横行した低賃金・長時間・危険作業という児童労働の実態を示す。
出典: Photo by Auguste Hervieu / Wikimedia Commons Public domainより
では実際に子どもたちは工場でどんなふうに働いていたのでしょうか。当時の工場では「小さな手」と「小さな体」が必要とされ、危険と隣り合わせの日常が広がっていました。
産業革命の中心地マンチェスターでは、多くの綿工場が立ち並び、朝から晩まで機械の音が鳴り響いていました。そこでは子どもたちが糸くずまみれになりながら働いていたんです。空気中には綿ぼこりが舞い、息をするのもつらい環境でしたが、休憩もほとんどなく、長時間の労働が当たり前でした。
工場主にとっては「安い労働力」でしたが、子どもにとっては遊びや学びの時間を奪われる過酷な日常だったんですね。
スカベンジャーは、動いている機械の下に潜り込んで綿くずを拾う仕事でした。少しでも油断すれば回転する歯車やベルトに巻き込まれる危険があり、実際に事故でけがを負った子どもも少なくありませんでした。
小さな体がそのまま危険と隣り合わせで、命を落とすことすらあったのです。子どもだからこそ任された仕事が、同時に最も危険な役割でもあったんですね。
ピーサーは、切れた糸をすばやく結び直す役目です。機械が止まると工場全体の作業効率に響くため、常に集中力を切らさずに作業を続けなければなりませんでした。
監督者の目が光る中での仕事はプレッシャーが大きく、少しのミスでも厳しい叱責や罰が待っていました。緊張と恐怖の中で手を動かし続ける子どもたちの姿は、産業革命の光と影を象徴していたんです。
石炭選別に従事する少年たち(1911年アメリカ・ペンシルベニア州)
事故が頻発する危険な現場であり、幼い体に過酷な負担を強いたことが社会問題となった。
出典: Photo by Lewis W. Hine / Library of Congress / Wikimedia Commons Public domainより
最後に、子どもが働かされたことが社会や制度にどんな影響を与えたのかを見ていきましょう。子どもたちの犠牲は痛ましいものでしたが、それがきっかけとなって社会全体が変わっていったのです。
長時間の労働と劣悪な作業環境は、成長期の子どもたちの体を深刻にむしばんでいきました。重い荷物を持たされて背骨が曲がる子どもや、綿埃や煤煙を吸い込み続けて肺を病む子どもも少なくなかったのです。
さらに暗くて危険な工場や鉱山での事故も多く、指や手足を失うようなけがも日常茶飯事でした。こうした健康被害は大人になる前から一生を左右してしまうほど深刻なものだったのです。
あまりにも過酷な現実に対して、親や宗教家、さらには政治家までもが「このままではいけない」と声を上げ始めました。社会全体に「子どもを守らなければ」という意識が広がっていったのです。
その流れの中で19世紀には工場法が制定され、子どもの労働時間の上限や雇用年齢の制限が定められるようになりました。これは単なる労働条件の改善ではなく、子どもの権利を守る第一歩となった大きな転換点だったのです。
子どもを工場から学校へ──この新しい流れが、やがて近代の義務教育制度へと結びついていきます。労働の代わりに教育を受けることで、子どもたちは読み書きや計算を学び、将来選べる職業の幅もぐっと広がるようになりました。
つまり児童労働の問題は、単なる労働条件の課題にとどまらず、「教育を受けることが子どもの当然の権利」という考えを社会に根付かせたのです。これが現代の教育制度の基盤となり、今の私たちにもつながっているんですね。
産業革命期の児童労働は、今の私たちからすれば「なんでそんなことを?」と思うほど過酷なものでした。でもその現実があったからこそ、子どもの権利を守る法律や教育制度が生まれました。マンチェスターの綿工場で働いた小さなスカベンジャーやピーサーたちの姿は、近代社会が成長するための痛みを象徴しているんですね。
|
|