
囲い込みで形作られた畑の生け垣(イングランド・ダラム州)
18世紀の議会エンクロージャーで畑と道が直線的に区画。農地が集約されて生産性が上がり、農村の余剰人口が都市へ流入して産業革命と人口増加を後押しした。
出典: Photo by Andy Waddington / Wikipedia commons CC BY-SA 2.0より
産業革命の話をするときに忘れちゃいけないのが「人口爆発」です。18世紀後半から19世紀にかけて、ヨーロッパの人口はぐんぐん増えていきました。もちろん理由はひとつじゃないんですが、大きなカギを握っていたのがエンクロージャー(囲い込み)なんです。農村の姿をガラッと変えたこの動きが、人の暮らしと人口にどんな影響を与えたのか、わかりやすくかみ砕いて解説します。
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マンチェスターの工業都市景観(1852年)
エンクロージャーで農村を追われた人々が都市へ流入し、人口増加によって産業の中心地として発展した。
出典: Photo by William Wyld / Google Art Project / Wikimedia Commons Public domainより
まずは舞台となった農村社会がどう変わったのかを押さえておきましょう。エンクロージャーは単なる土地制度の改革ではなく、農民の暮らしや地域の姿を根底から揺さぶってしまったんです。
中世から続いてきた共有地は、農民が牛や羊を放牧したり薪を拾ったり、生活を支えるために欠かせない場所でした。けれど地主がその土地を「囲い込み」して私有化したことで、農民たちはそこに立ち入れなくなります。生活の糧を得る場を失った農民は、ただ土地を離れるしかなかったんです。
農村で生きる基盤を失った人々は都市へ流れざるをえなくなったという流れは、この時代の大きな社会的転換でした。
土地を囲い込んだ地主たちは、農作物よりも利益率の高い羊毛生産に力を入れるようになります。当時のイギリスでは羊毛が海外への輸出品として大もうけできる商材だったんですね。そのため、農業労働者の需要は減り、牧羊に従事する一部の人を残して、多くの農民は職を失ってしまいました。
農地が「食を生む場」から「利益を生む牧草地」へと変えられていく過程で、農村社会のバランスは大きく崩れていったのです。
仕事や土地を追われた農民たちは、産業革命で新しく誕生した工場労働者として都市へ移り住みます。農村の人口は減り続けた一方で、マンチェスターやバーミンガムといった工業都市は急速に人であふれ返りました。
結果として、農村の衰退と都市の膨張が同時に進行することになり、そこから「人口増加」と「都市化」がセットで進んでいったわけです。この動きが、近代的な都市社会の原型を形づくることにつながったんですね。
リバプール・マンチェスター鉄道の開業(1830年)
食料の安定供給を可能にする輸送網が整い、人口増加を支える近代的な都市発展の基盤となった。
出典:A. B. Clayton (artist) / Wikimedia Commons Public domainより
農村から都市へ移った人々の生活環境も、人口増加に大きく関わっていました。ただ単に数が増えただけではなく、暮らしの質そのものが少しずつ変わり、それが人の命を支える力になっていったんです。
農業技術の発展や品種改良、さらに輸送手段の改善によって、都市に大量の食料が安定的に届くようになりました。例えばジャガイモや小麦といった作物が効率よく育てられ、蒸気機関車や運河を通じて素早く供給されるようになったんです。
そのおかげで飢饉の頻度が減ったことは人口増に直結しました。農業革命の成果と産業革命で進んだインフラ整備がしっかり噛み合い、人々の食卓を支えていったんですね。
18~19世紀には医療の知識が少しずつ広まり、ジェンナーによる天然痘のワクチンが普及していきました。感染症での大量死が減り、命を落とす確率がぐっと下がったんです。
加えて都市部では上下水道の整備やゴミ処理の仕組みが徐々に導入され、衛生環境も改善されていきました。子どもが生き延びられる確率が高まり、家族の未来を支える人数が増えたんですね。
農村では子どもが農作業の手伝いをする労働力として数を頼りにされていましたが、都市へ移ると家族全員が賃金労働者となり、工場で働くことが生活の基本になりました。子どもの数自体は多いままでしたが、死亡率が下がったことで結果的に大家族が存続しやすくなったんです。
そのため「産めば産むほど生き残る」状況が人口爆発を加速し、都市の人口は雪だるま式に増えていきました。こうした家庭のあり方の変化こそが、産業革命期の人口増加を裏から支える大きな要因だったんです。
エリス島へ向かう移民(1900年)
人口増加で職や生活を求める移民が流入し、社会構造や文化に大きな影響を及ぼす要因となった。
出典:Photo by Bain News Service / Library of Congress / Wikimedia Commons Public domainより
イギリスから始まった人口増加の流れは、やがて世界各地に広がっていきます。最後にその波及効果を見てみましょう。産業革命は単なる地域の出来事ではなく、世界人口の動きにまで影響を与えたのです。
イギリスでの工業化がフランスやドイツにも広がると、同じように都市部への人口集中が進みました。都市は仕事を求める人々でふくれ上がり、ヨーロッパ全体の人口グラフが跳ね上がっていきます。
農村から都市への流出が続いた結果、地方の村々は過疎化する一方で、パリやベルリン、マンチェスターといった都市は爆発的に成長しました。人口増加は経済活性化を促しましたが、同時に住宅不足や衛生問題といった課題も広がり、「近代都市」のかたちを作るきっかけになったのです。
人口が急増したヨーロッパでは職や土地を求めて多くの人がアメリカへ移住しました。新天地の広い土地と豊富な資源は受け皿となり、さらに大西洋を越えて人口移動が加速していったんです。
移民たちは鉄道建設や農業開拓に従事し、アメリカの急成長を支える存在となりました。また、アイルランドのジャガイモ飢饉のような危機が、大規模移民をさらに押し出す要因となり、アメリカ社会の多様性を生み出す基盤にもなっていきました。
産業革命で生まれた世界市場は食料や物資を国際的に流通させ、世界全体での人口増を下支えしました。つまり、エンクロージャーから始まった人口流入の連鎖が、最終的にはグローバルな人口爆発へとつながったんです。
アジアやアフリカでも欧米の工業製品が流入し、植民地経済を通じて人口増加が進みました。世界の隅々まで市場が結びついたことで、一地域の人口動態が他地域に影響を与える時代となり、産業革命は「世界史規模の人口転換」を引き起こしたとも言えるのです。
こうして見ると、産業革命以降の劇的な人口増加は、単に「人が増えた」だけの話ではありませんでした。エンクロージャーによる農村の変化が人々を都市に押し出し、そこで生まれた新しい暮らしと社会制度が死亡率を下げ、子どもを多く生かすようになった。こうした流れが重なり合って、ヨーロッパから世界へと広がる人口爆発につながったのです。
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