
リヨンのカニュ騒乱(1831年)
機械化に反発する絹織工の蜂起を描いた場面で、職人中心の生産構造と政情不安が工場制の普及を鈍らせ、フランスの産業革命の立ち上がりを遅らせた一因。
出典: Photo by Unknown author / Wikimedia Commons Public Domain Mark 1.0より
フランスって、文化や芸術ではヨーロッパの中心にいたのに、産業革命のスタートはイギリスやベルギーに比べてだいぶ遅かったんです。その理由を探ると、やっぱり政治の不安定さや社会の矛盾が大きなカギを握っていました。革命や戦争で落ち着かない国の中で、工業化はなかなか進みにくかったんですね。今回は、その遅れの背景をしっかり見ていきましょう。
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フランスは18世紀末から19世紀前半にかけて、まさに政治の激動期でした。
1789年のフランス革命によって旧制度が崩壊し、社会は大混乱。地主や資本家は投資どころではなく、経済の安定基盤が揺らいでしまったんです。
続いてナポレオン戦争(1803 - 1815)が勃発。ヨーロッパ全土を巻き込む戦いに資源や人材を取られ、工業化に回せる余力はほとんどありませんでした。
復古王政、七月革命、二月革命…と19世紀前半のフランスは政権交代の連続でした。政治的安定が欠けると、産業への長期的投資が難しく、工場の発展がどうしても遅れてしまったんです。
もうひとつ、フランス特有の経済構造や労働環境が工業化の遅れを招きました。
フランスは肥沃な土地に恵まれていたので、依然として農業中心の経済が強かったんです。農村人口が多く、都市への労働力集中が遅れました。
フランスの繊維産業は家内工業的に分散していて、大規模な工場制機械工業へ移行しにくかったんです。イギリスのように一気に大量生産体制を整えるのは難しかったんですね。
1831年と1834年にリヨンのカニュ(絹織物工)騒乱が発生しました。これは労働環境の悪化と低賃金に抗議する労働者の反乱で、産業化の歪みを象徴する出来事でした。工業化が社会不安を増幅させたとも言えます。
ただ「遅れた」と表現されることはあっても、フランスは決して何もしていなかったわけではありません。
むしろ独自の特徴を持ちながら、自分たちのスタイルで工業化を進めていったのです。
フランスは繊維や陶器、ガラスといった軽工業の分野で大きな力を発揮しました。
イギリスのように重工業一辺倒ではなく、伝統的な職人の技と新しい機械生産を上手に組み合わせたのが特徴だったのです。
特にリヨンの絹織物やセーヴルの陶器、透明度の高いガラス製品などは世界的に高く評価されました。
つまり職人技と機械生産を組み合わせたスタイルがフランスの工業の持ち味だったのです。
1840年代以降、フランス政府は本格的に鉄道網の整備に取り組みました。
鉄道の発展によって地方の工業地域とパリのような大都市が結びつき、経済の動きがぐんと活発になったのです。
鉄道は原材料を運ぶルートにも、完成した製品を市場に届けるルートにもなりました。
そのおかげで工業化の基盤が徐々に整い、各地で産業の成長が後押しされたのです。
イギリスやベルギーの産業革命を手本にできたことは、フランスにとって大きな利点でした。
すでに成功している仕組みを観察し、良い部分を積極的に取り入れることができたのです。
そのため最新の技術や制度を導入できるという「後発ならではの強み」がありました。
遅れて始まった分、最初から効率的で進んだ工業化を目指せたのです。
こうして見ると、フランスの産業革命が遅れたのは、政治的な混乱と農業中心の経済構造、さらに労働環境の不安定さが重なったためでした。ただし、遅れて始まったからこそ独自の工業化を模索でき、後発の利点を活かして発展していったのも事実なんですね。
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