
ロシア・ヒューズオフカのレール圧延工場(1887年)
炭鉱と鉄鋼の結合が進み、ロシアの産業革命を推し進めた現場
出典: Photo by Unknown author / Wikimedia Commons Public domain (PD-RusEmpire)より
ロシアの産業革命は、イギリスやフランスに比べてかなり遅れてスタートしました。その大きな特徴は、民間の自発的な動きではなく国家主導で進められた点にあります。広大な国土と豊富な資源を背景にしながらも、農奴制の存在や社会構造の硬直がブレーキとなり、特殊なかたちで工業化が進んでいったんです。
|
|
まずロシアの産業革命の一番の特徴は、政府が直接リードしたということです。
1861年の農奴解放令で数百万の農民が法的には自由を得ました。これにより都市への人口移動が始まり、ようやく労働力が工場に流れ込む環境が生まれたんです。
ロシア政府は広大な国土をまとめるため鉄道整備を国家事業として進めました。シベリア鉄道の建設をはじめとする鉄道網の拡大は、産業革命の基盤を作る大プロジェクトだったんです。
技術や資金は自国だけでは足りず、フランスやイギリス、ベルギーなど外国資本を積極的に受け入れました。これによって工場や鉱山が近代化され、工業が動き出しました。
ロシアの産業革命では、最初から重工業に力が注がれました。
ウクライナを中心に広がるドネツ炭田は石炭の宝庫で、鉄鋼業の燃料供給を担いました。さらにウラル山脈周辺の鉄鉱石も加わり、重工業に必要な資源は国内で賄えたんです。
その象徴が、ウェールズ出身の実業家ジョン・ヒューズが設立したヒューズオフカ(現ドネツク)のレール圧延工場です。鉄道建設に不可欠なレールを大量生産し、ロシアの工業化を一気に押し上げました。外国人技術者と国内資源の融合が、この地で実現したんですね。
鉄道や製鉄所は、軍需産業とも直結していました。鉄道輸送力の強化は軍事力の増強にもつながり、帝政ロシアは安全保障と工業化をセットで進めたんです。
最後に、ロシア産業革命の社会的な側面を見てみましょう。
農奴解放後、農村から都市へと人々が流入し、モスクワやサンクトペテルブルクは急速に工業都市へと成長しました。 ただし都市インフラは追いつかず、衛生や住宅の深刻な問題が広がり、生活環境は劣悪だったんです。
華やかな工業化の裏で、多くの人々が厳しい都市生活を余儀なくされました。
工場で働く労働者階級が新たに登場しました。 彼らは低賃金や長時間労働に苦しみ、過酷な環境の中で社会的な不満を募らせていきます。
やがて労働運動や革命運動の担い手となり、後のロシア社会を揺るがす原動力となっていきました。
ロシアの工業化は都市と農村、中心と周辺で進み方に大きな差がありました。 部分的な近代化と広大な伝統社会のギャップは埋まらず、この不均衡な発展が社会不安の火種となったんです。
近代的な工業地帯と、昔ながらの農村社会が同時に存在する矛盾が、やがて大きな歴史の転換点を生み出していきました。
こうして見ると、ロシア産業革命のきっかけはまさに「国家主導」の工業化にありました。鉄道建設と重工業育成を軸に一気に進んだものの、社会のひずみも大きく、これが後のロシアの歴史を大きく揺るがしていったんですね。
|
|