
ボンベイの綿花俵の計量(1908年)
インドの綿花が港で俵詰め・計量され、イギリス本国の繊維工業へ原料として送られた過程の一場面。植民地政策による綿花供給が産業革命を下支えした背景を示す。
出典: Photo by Unknown author / Wikimedia Commons Public domainより
産業革命と聞くと、ついヨーロッパの工場や蒸気機関を思い浮かべがちですが、その裏側には「植民地」の存在が大きく関わっていました。工場がフル稼働するためには、原料の安定供給と製品を売る市場が必要不可欠。そこで重要な役割を果たしたのがインドをはじめとする植民地だったのです。今回は、特にボンベイの綿花を例に取りながら、植民地がどんなふうに産業革命を支えていたのかを探っていきましょう。
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まず大きなポイントは、ヨーロッパの工業に必要な原料を植民地が供給していたことです。イギリスの産業革命に欠かせない綿花も、その多くがインドやアメリカから運ばれてきました。
19世紀、インド西部のボンベイ(現在のムンバイ)は綿花の一大生産地として注目されました。イギリスはここから大量の綿花を輸入し、マンチェスターやリバプールの紡績工場で布へと加工していったんです。つまりインドはイギリス工業の「燃料タンク」そのものだったといえます。
植民地はイギリス本国の都合に合わせて生産を強制される形でした。農民は自給用の作物ではなく、輸出用の綿花を作らされ、食料不足に苦しむことも多かったのです。
同時期にアメリカ南部でも大量の綿花が生産されていましたが、インドのボンベイ綿花はその補完的な供給地でした。とくにアメリカ南北戦争の際には、ボンベイ綿花がイギリス産業を支える決定的な役割を果たしたのです。
植民地の役割は「原料を出す」だけではありません。イギリスで作られた製品を「買わせる市場」としての役割も大きかったのです。
インドから綿花を輸入し、工場で安く大量生産した布は、再びインド市場に送り返されました。その結果、インドの伝統的な織物産業は壊滅的な打撃を受けることになります。植民地は原料供給地であると同時に、製品を売りつけるための市場でもあったのです。
イギリスは植民地に有利な関税を設定し、本国の工業製品が安く流通する仕組みをつくりました。これにより、現地の産業は競争力を失い、ますますイギリス製品に依存させられていったのです。
インドだけでなく、アフリカやアジアの植民地も同じ構造の中に組み込まれました。イギリスは世界中を「工場の材料庫」と「製品の販売所」として利用していったんです。
こうした植民地利用は、やがて帝国主義の加速につながっていきました。資源と市場をめぐって列強同士の競争が激化したのです。
インドでは植民地支配を効率化するために鉄道が建設されました。これは人や物資の移動を便利にしただけでなく、資源を素早く港に運び出す仕組みでもあったのです。
植民地は工業化せず、原料の供給地として固定されていきました。そのためインドを含む多くの地域は、自国の工業化を阻まれたまま近代を迎えることになったのです。
19世紀後半にはアジア・アフリカの植民地獲得競争が激化しました。産業革命で得た力を背景に、ヨーロッパ列強が世界を分割し支配する「帝国主義の時代」が始まったのです。
産業革命の工場を支えたのは、イギリス国内の技術だけではなく、植民地の原料と市場でした。ボンベイの綿花がイギリスを動かし、逆にインドの伝統産業を衰退させたように、この関係は一方的で不平等なものでした。しかし同時に、それが世界規模の帝国主義を加速させ、近代の国際秩序を形作っていったのです。
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