
トゥーラ・カートリッジ工場のストライキ(1905年)
帝政ロシアの急速な工業化の矛盾が噴出し、労働者の不満がストとして表面化した場面を捉えた写真で、遅れと歪みを抱えたロシアの産業革命の失敗を象徴。
出典:Photo by Unknown author / Wikimedia Commons Public domainより
ロシアって、広大な土地と豊富な資源を持っているのに、なぜ産業革命をイギリスやドイツのようにスムーズに進められなかったのか、不思議に思いませんか?実はそこには、ロシア特有の社会構造や政治体制が深く関わっていたんです。農奴制の存続、国家主導の重工業偏重、そして労働者の不満爆発──これらが複雑に絡み合って、「失敗した産業革命」と語られる背景になっていったんですね。
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まず大きな壁となったのが、ロシアに長く残っていた農奴制です。農民の大多数が土地に縛られていたことで、自由に動ける労働力が不足していました。
産業革命には都市に集まる労働者が必要不可欠。でも、ロシアでは農奴が地主の土地から勝手に離れることができず、工場に人手を集めにくかったんです。労働力の移動の遅れが工業化の足かせになりました。
ヨーロッパの他国が工業化で都市を発展させている一方、ロシアは依然として農業輸出が中心。穀物を売って外貨を稼ぐ方が優先され、産業投資が後回しにされました。
農奴解放令が出されたのは1861年。イギリスで産業革命が進んでから、すでに100年近く後のことでした。この遅れが、ロシアの工業化を大きく立ち遅れさせたんです。
農奴制の足かせをなんとか外したあとも、ロシアは「国家が主導する形」で工業化を進めました。でも、それがまた別の問題を呼んだんです。
ロシア政府は兵器工場や鉄道建設を優先しました。たとえばトゥーラにあったカートリッジ工場は代表例で、国家の軍備を支える拠点だったんです。ところが、こうした軍需中心の産業は民間の生活を豊かにする産業にはつながりにくく、社会全体の近代化を遅らせる要因となりました。
工業化を急ぐために、ロシアはフランスやイギリスなどの外国資本に頼りました。資本も技術も国外依存が強く、結局「自前の産業力」が育ちにくかったんです。
鉄道建設などの大型事業は進んだけれど、都市全体のインフラや生活基盤は後回し。農村と都市の格差が広がるだけで、産業の裾野はなかなか広がりませんでした。
さらに深刻だったのが、工業化の中で働かされた労働者たちの環境の悪さです。これはやがて大きなストライキや革命運動へとつながっていきました。
工場労働者は長時間労働・低賃金・不衛生な環境に置かれました。農奴から解放されたばかりの人々が慣れない都市生活を送りながら、搾取的な労働を強いられていたんです。
象徴的なのが1905年革命の中で起こったトゥーラ・カートリッジ工場のストライキです。軍需産業の中心でさえ労働者が不満を爆発させ、「国家主導の工業化が民衆を救っていない」ことを示す事件になりました。
こうした労働者の怒りは、社会主義思想の広がりと結びついてロシア革命へと直結していきます。産業革命の失敗は、単に経済の遅れだけでなく、政治体制そのものを揺るがす事態に発展していったんです。
こうして見ると、ロシアが産業革命に「失敗した」といわれるのは、農奴制による人材不足、国家主導の偏った工業化、そして労働者の不満の爆発という三重苦が重なったからなんですね。資源は豊富でも社会の仕組みが追いつかず、結局は革命につながる大きな不安定要因を生み出してしまったのです。
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