
産業革命といえばイギリスが先駆けとなり、その後フランスやベルギー、アメリカなどへと広がっていきました。しかし、ドイツはこれらの国々に比べて産業革命の進行が遅れたと言われています。
最終的には19世紀後半に急速な工業化を遂げ、ヨーロッパ屈指の工業国となったドイツですが、なぜそれまで遅れをとっていたのでしょうか? 本記事では、その理由を「国家の分裂」「経済発展の遅れ」「政治・社会制度の影響」の3つの視点から解説します。
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19世紀前半のドイツは、統一国家ではなく、複数の小国に分かれていました。この政治的な分裂が、産業革命の進展を妨げる大きな要因となりました。
ナポレオン戦争後の1815年、ウィーン会議によってドイツ連邦が成立しました。しかし、これは35の独立した君主国と4つの自由都市からなる緩やかな国家連合にすぎず、統一された経済政策や産業政策を進めることができませんでした。イギリスやフランスのような中央集権的な国家体制がなかったため、各国の間で産業発展に差が生じ、工業化が進みにくかったのです。
各国が独立した経済政策をとっていたため、ドイツ国内では関税が乱立していました。例えば、ある国から別の国へ商品を輸送するたびに関税がかかり、物資の流通が妨げられていました。これにより、イギリスやフランスのように国内市場が広がらず、産業の発展が遅れました。
工業化を進めるには、強力な商業基盤や資本の蓄積が必要です。しかし、ドイツではこれらの要素が不足していました。
イギリスやオランダ、フランスは17世紀から大航海時代を経て貿易が発展し、豊富な資本を蓄積していました。一方、ドイツは海上貿易の中心にはなれず、商業の発展が遅れていました。そのため、産業革命に必要な資本や金融システムの整備が不十分だったのです。
ドイツの経済は19世紀前半まで農業中心でした。特に東部のプロイセンでは、大規模な農場を所有するユンカー(地主貴族)が支配的であり、工業化よりも農業の発展が重視されていました。これにより、都市の発展や労働力の移動が妨げられ、工業化が進みにくかったのです。
産業革命が進むためには、自由な経済活動を可能にする政治的な安定や制度改革が不可欠です。しかし、ドイツではこの点でも課題を抱えていました。
イギリスやフランスでは、18世紀までに封建制度が解体され、労働力の移動が容易になっていました。しかし、ドイツでは農奴制が長く存続し、特にプロイセンやオーストリアでは農民が地主に従属している状況が続いていました。これにより、都市部へ移動して工場労働者になる人が少なく、労働市場が発展しにくかったのです。
19世紀前半のドイツでは、自由主義と保守主義の対立が激しく、政治が不安定でした。特に1848年の三月革命では、民主的な国家統一を目指す動きがありましたが、最終的には保守勢力が勝利し、産業発展を促進する自由主義的な政策は実現しませんでした。政治の混乱が続いたことで、経済成長の妨げとなったのです。
こうした要因で産業革命が遅れたドイツですが、19世紀後半になると急速に工業化を進めることになります。その要因として、以下の点が挙げられます。
1834年、プロイセン主導でドイツ関税同盟(ツォルフェライン)が設立されました。これにより、ドイツ国内の関税が撤廃され、統一市場が形成されました。これが後の産業発展を大きく後押ししました。
1871年にドイツ帝国が成立し、国家の統一が実現しました。これにより、統一的な経済政策を進めることが可能になり、鉄鋼・化学・機械産業が急成長しました。
ドイツの産業革命が遅れた理由は、大きく3つあります。
1つ目は国家の分裂によって、統一的な経済政策や市場形成が進まなかったこと。2つ目は経済の未発達で、農業中心の社会が長く続き、商業や金融の発展が遅れたこと。3つ目は政治・社会制度の問題で、封建的な農奴制の存続や政治の不安定さが工業化を妨げたことです。
しかし、19世紀後半にドイツ関税同盟が成立し、1871年のドイツ統一が実現したことで、ドイツは急速に工業化を進め、最終的にはヨーロッパ有数の工業大国へと成長したのです。