産業革命がイギリスの外交政策に与えた影響とは?

産業革命は18世紀後半にイギリスで始まり、その後ヨーロッパ各国やアメリカに広がっていきました。しかし、この工業化の発展を支えた大きな要因の一つが、植民地政策です。西欧諸国はアジア、アフリカ、南米などの植民地から原材料を確保し、市場を拡大し、さらには労働力や資本を活用することで、自国の産業を発展させていきました。

 

では、植民地政策が産業革命をどのように支えたのか? 本記事では、「原材料の供給」「市場の拡大」「労働力と資本の確保」の3つの視点から詳しく解説します。

 

 

原材料の供給

産業革命によって工場での大量生産が可能になりましたが、そのためには大量の原材料が必要となりました。植民地はその供給源として重要な役割を果たしました。

 

綿花の供給とインド

イギリスの繊維産業にとって、最も重要な原材料の一つが綿花でした。18世紀末から19世紀にかけて、イギリスはインドを統治し、インドで生産される綿花を本国に輸送しました。さらに、アメリカ南部でもプランテーション農業が発展し、奴隷労働によって大量の綿花が生産され、イギリスへ供給されました。

 

ゴム・砂糖・鉱物資源の確保

19世紀後半には、自動車産業の発展に伴い、東南アジア(マレーシア、インドネシア)でゴムのプランテーションが拡大しました。また、カリブ海や南米の植民地では砂糖が生産され、ヨーロッパ市場に供給されました。さらに、アフリカでは金やダイヤモンドが採掘され、産業発展の資本として活用されました。

 

市場の拡大

産業革命によって大量の工業製品が生産されるようになりましたが、それを売るための市場の拡大が不可欠でした。植民地は西欧諸国の工業製品を受け入れる市場として機能しました。

 

インド市場の活用

イギリスはインドを巨大な市場として利用しました。インドでは、もともと手工業による繊維産業が発達していましたが、イギリスは関税制度を利用してインドの綿織物産業を衰退させ、代わりにイギリス製の工業製品を流入させました。その結果、インド市場はイギリスの工業製品を消費する市場として組み込まれたのです。

 

アヘン戦争と中国市場の開放

19世紀初頭、イギリスは中国市場を開拓しようとしましたが、清(中国)は西洋の製品を受け入れませんでした。そこで、イギリスはインドで生産したアヘンを中国に輸出し、中国から茶や絹を輸入する貿易を確立しました。しかし、清がアヘン貿易を禁止すると、イギリスはアヘン戦争(1840-1842年)を起こし、戦争に勝利した結果、中国は南京条約を締結し、香港をイギリスに割譲するなど、西欧の市場として開放されることになりました。

 

労働力と資本の確保

植民地政策は、産業革命に必要な労働力と資本の供給源としても機能しました。

 

奴隷制度と労働力の供給

産業革命初期には、アメリカ南部やカリブ海のプランテーション農業で生産された綿花や砂糖がヨーロッパに輸出されましたが、これらの農場ではアフリカから連れてこられた奴隷が労働力として使われました。奴隷制度は19世紀前半には廃止されましたが、それまでにヨーロッパ経済に巨大な利益をもたらしていました。

 

植民地からの富の流入

西欧諸国は、植民地での貿易や資源採掘によって莫大な富を蓄積しました。この資本が銀行や投資家を通じて産業革命の資金として活用され、鉄道・工場・軍事技術の発展を後押ししました。例えば、イギリスのロンドン金融市場は、植民地経済と深く結びついており、世界の資本が集まる中心地となったのです。

 

まとめ

産業革命を支えた植民地政策の背景には、「原材料の供給」「市場の拡大」「労働力と資本の確保」という3つの要素がありました。

 

原材料の供給では、インドやアメリカからの綿花、東南アジアのゴム、アフリカの鉱物資源が産業の発展を支えました。市場の拡大では、イギリスがインド市場を支配し、中国市場をアヘン戦争で開放しました。労働力と資本の確保では、奴隷制度による労働力と植民地からの富の流入が産業革命の資本となりました。

 

このように、産業革命は植民地からの資源と市場によって成り立っていたと言えます。西欧諸国の工業化は、植民地支配による経済的な恩恵なしには進まなかったのです。