
清朝中国の列強勢力圏(20世紀初頭)
産業革命以降、蒸気船や遠距離火力の優位を背景に列強が租借地と通商権益を拡大し、清朝中国に勢力圏を伸ばしていった様子を示す地図。
出典: Photo by Mosr / Wikimedia Commons CC BY-SA 3.0より
産業革命でヨーロッパが力をつけると、その矛先はやがてアジアに向かっていきました。イギリスやフランスといった西欧列強は、自分たちの産業を回すために「市場」と「資源」を必要とし、そのためにアジアを“進出”の対象にしていったんです。でもアジアの人々からすれば、それは侵略に他なりませんでした。ここでは、なぜ産業革命後にアジア侵略が進んだのかを整理していきましょう。
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まず押さえておきたいのは、産業革命で急成長した工業が求めた市場と資源の存在です。
機械で大量生産した製品は、国内市場だけではさばききれません。「作ったものを売る場所」が欲しいという思惑から、人口の多いアジアは格好の市場と見なされたんです。
工業に欠かせない綿花・茶・香辛料・鉱産資源などはアジアに豊富でした。西欧列強は原料供給地を支配下に置くことで、安定的に工場を回そうとしたんですね。
「自由貿易」という大義名分のもと、西欧列強はアジア諸国に対して不平等条約を結ばせました。実際には一方的に利益を得る仕組みで、経済的な侵略といえるものでした。
次に重要なのは、産業革命で発展した軍事技術です。これがアジア進出を一気に加速させました。
蒸気船のおかげで遠いアジアまでの航海がスピーディーに、そして安全に行えるようになりました。現地での鉄道敷設も進み、軍隊や物資の移動が飛躍的に効率化したんです。
ヨーロッパは鉄砲・大砲・装甲艦といった近代兵器を持っていました。一方のアジア諸国は軍備が旧式のまま。この軍事力の差こそが、西欧の侵略を容易にした決定打でした。
その結果、アヘン戦争やインド大反乱などで抵抗しても、西欧列強の軍事力の前に敗北。敗戦後に不平等条約を押し付けられ、さらに進出を許す形になったんです。
アジア侵略の象徴的な舞台となったのが清朝中国です。ここでは租借地や通商権益を通じて、西欧列強がどう進出したのかを見てみましょう。
1840年のアヘン戦争でイギリスが勝利すると、中国は南京条約で開港を余儀なくされました。これがアジアにおける本格的な「不平等条約体制」の始まりだったんです。
19世紀後半になると列強は中国各地に租借地を確保しました。イギリスは香港や威海衛、フランスは広州湾、ドイツは膠州湾といった具合に、中国の領土が次々と「期限付きで占領」されていったんです。これが事実上の植民地支配でした。
さらに列強は鉄道敷設権や鉱山採掘権といった通商権益を奪い、中国経済を蚕食しました。見た目は独立国でも、実際には経済も政治も西欧列強に握られていたわけです。
まとめると、産業革命後にアジア侵略が進んだのは、工業国が市場と資源を求め、さらに軍事力の差で圧倒できたからです。清朝中国の例に見られるように、租借地や通商権益を通じて「進出」という名の侵略が進み、アジアの主権は大きく侵食されていきました。
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