
産業革命と三角貿易は、密接に関係していました。三角貿易とは、18~19世紀に大西洋を舞台に行われた貿易システムのことで、ヨーロッパ・アフリカ・アメリカ(西インド諸島を含む)の三地域を結ぶ形で展開されました。この貿易によって、イギリスを中心とするヨーロッパ諸国は膨大な利益を得て、産業革命を支える資本と原材料を確保することができたのです。
では、三角貿易の仕組みと、それが産業革命に与えた影響、さらに産業革命が三角貿易にもたらした変化について詳しく見ていきましょう。
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三角貿易では、ヨーロッパ・アフリカ・アメリカを結ぶ貿易ネットワークが形成されていました。以下はその大まかな仕組みになります。
ヨーロッパの商人たちは、武器・布・ガラス・酒などの工業製品をアフリカに輸出しました。これらの製品と引き換えに、アフリカの部族や王国から奴隷を購入し、アメリカ大陸へと送り込んだのです。
「中間航路(Middle Passage)」と呼ばれる航路で、黒人奴隷が船に詰め込まれ、カリブ海やアメリカ大陸へと輸送されました。到着した奴隷たちは、プランテーション農場で綿花・砂糖・タバコ・コーヒーなどの農作物を生産する労働力として酷使されました。
アメリカ大陸で生産された綿花・砂糖・タバコなどの農産物は、大量にヨーロッパへ輸出されました。特に綿花は、イギリスの繊維産業にとって欠かせない原材料となり、産業革命の発展に大きく貢献しました。
三角貿易の利益が、産業革命の発展を後押ししました。
三角貿易を通じて、ヨーロッパの商人や投資家たちは莫大な利益を得ました。この資本の蓄積が、産業革命の基盤を支えることになりました。例えば、イギリスの銀行や証券市場は三角貿易の利益をもとに発展し、工場の建設や機械開発への投資が活発になったのです。
アフリカやアメリカ大陸の植民地は、ヨーロッパの工業製品の一大市場でもありました。武器や布などのヨーロッパ製品が大量に輸出されることで、工業生産が拡大し、産業革命の進展を後押ししました。
イギリスの繊維産業は、三角貿易によってもたらされたアメリカ産の綿花によって急成長しました。マンチェスターを中心に、紡績工場が次々と建設され、機械化が進み、大量生産が可能になったのです。
産業革命が進むにつれ、三角貿易の形態も変わっていきました。
産業革命の発展とともに、奴隷制度に対する批判が強まりました。イギリスでは、19世紀に人道的な観点から奴隷貿易の廃止を求める運動が活発化し、最終的に1807年に奴隷貿易が禁止され、1833年には奴隷制度そのものが廃止されました。
産業革命の進展により、工場労働が主流となり、安価な賃金労働者が求められるようになりました。そのため、奴隷労働に依存する経済モデルは次第に衰退し、賃金労働を基盤とする資本主義経済へと移行していきました。
19世紀には、イギリスが自由貿易政策へと転換し、特定の植民地に依存しない貿易体制が整えられました。これにより、世界各国と広く貿易を行うグローバル経済の基盤が築かれたのです。
三角貿易と産業革命の関係を振り返ると、次のようなポイントが見えてきます。
こうしてみると、三角貿易は産業革命の成長を支えつつ、産業革命の進展によって形を変えていったのですね!