
クレスピ・ダッダの綿紡績工場(イタリア・ベルガモ県)
北イタリアで工場制機械工業が根付いた象徴的な綿工場で、イタリアの産業革命の始まりを示す拠点のひとつ。水力と機械化を軸に繊維生産の大規模化が進んだ。
出典:Photo by Daniel Case / Wikimedia Commons CC BY-SA 3.0より
イタリアの産業革命と聞くと、イギリスやドイツに比べて少し遅れて始まったイメージがありますよね。実際、イタリアでは19世紀後半にようやく産業化が本格化しました。その中心は北イタリア──特にロンバルディアやピエモンテなどの地域で、繊維産業を軸に工業化が進んだのです。
この記事では、「イタリアの産業革命の始まりはいつだったのか?」という疑問に答えるべく、その背景と発展の流れを整理していきます。注目したいのはクレスピ・ダッダの綿紡績工場というモデル都市。ここにイタリア的な産業革命の姿が凝縮されているのです。
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イタリアで産業革命が始まるのは、19世紀の統一運動とほぼ同じタイミングでした。つまり「国民国家の誕生」と「工業化の進展」が同時に走ったのです。
イギリスが18世紀からすでに産業革命を進めていたのに対し、イタリアは政治的に分裂していたため工業化が遅れました。ナポレオン支配やオーストリアの影響も強く、経済の統一基盤が整っていなかったのです。イタリアが近代化を歩み始めるのは19世紀後半に入ってからでした。
産業革命の中心はミラノやトリノを抱える北イタリアでした。この地域はアルプスの水資源が豊かで、綿紡績や絹織物といった繊維産業に適していたのです。さらにスイスやフランスに近いこともあり、新しい技術や資本が流入しやすかったという地理的利点もありました。
1861年にイタリア王国が成立すると、政府は鉄道や港湾の整備に力を入れました。こうして国内市場が徐々に統合され、「近代国家としての成長」と「産業化」が一体となって進んだのです。
イタリア産業革命の象徴ともいえるのがクレスピ・ダッダです。ここは工場と労働者住宅を一体化させた「企業城下町」であり、近代イタリアの工業化を物語る遺産となっています。
クリストフォロ・ベニーニ・クレスピとその息子たちが、ベルガモ県に綿紡績工場と従業員住宅を整備しました。労働者は工場のそばで暮らし、学校や教会まで備えられた環境で働いたのです。まるで「工業のための理想都市」といえるものでした。
19世紀後半のイタリアで最も盛んだったのは綿紡績でした。原料は植民地や海外貿易を通じて輸入され、北イタリアの水力を使った工場で加工されます。これにより地域経済は大きく成長し、農業社会から工業社会へのシフトが進みました。
クレスピ・ダッダのような企業都市は、労働者に住居や社会サービスを提供しました。一方で、経営者の統制下にあるという面もありました。「保護」と「支配」が同居する労働環境は、イタリア産業革命の特色といえるでしょう。
北イタリアで始まった工業化は、やがて鉄道や重工業にまで広がり、近代国家としての基盤を固めていきます。
鉄道建設は産業革命の推進力となりました。特にミラノを中心とする鉄道網は、国内市場の統合と輸出入の拡大を支えました。交通インフラこそがイタリア工業化を加速させた原動力だったのです。
19世紀末にはトリノやジェノヴァで造船・機械工業が発展し、イタリアは繊維中心の国から重工業を持つ国へと変わっていきました。これにより「農業国」というイメージから脱却しつつありました。
ただし産業革命はイタリア全土に均等に広がったわけではありません。北部が工業化で豊かになる一方、南部は農業中心にとどまり、南北格差という現代まで続く問題がこの時期に生まれたのです。
まとめると、イタリアの産業革命の始まりは19世紀後半の北イタリアの工業化にありました。その象徴がクレスピ・ダッダの綿紡績工場であり、ここから近代イタリアが動き出したのです。
イタリア産業革命は「地域の工業化」から「国家の近代化」へとつながる転換点だったといえるでしょう。
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