
産業革命は社会を大きく発展させた一方で、新しい技術の導入によって職を失う人々も出てきました。これに対する反発として起こったのが、19世紀初頭のラッダイト運動です。機械化によって生活が脅かされた職人たちが工場を襲撃し、織機などの機械を破壊するという激しい抵抗運動を展開しました。
では、ラッダイト運動はなぜ起こったのか? ここでは、「労働環境の悪化」「職人の仕事の喪失」「政府の対応」の3つの視点から詳しく解説します。
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産業革命によって工場労働が普及し、多くの人々が新たな労働環境に適応する必要がありました。しかし、その環境は決して良いものではありませんでした。
工場では12〜16時間労働が当たり前で、賃金は低く抑えられていました。特に、これまで熟練の技術を持っていた職人たちは、単純労働を強いられ、賃金も職人時代に比べて大幅に下がりました。
工場内は蒸気機関や織機の騒音が響き渡り、空気は粉塵や煤で汚染されていました。さらに、安全対策がほとんどなかったため、事故や怪我が頻発していました。こうした状況は職人たちにとって受け入れがたいものだったのです。
産業革命による機械化は、特に手工業に従事する職人たちにとって致命的な打撃となりました。
ラッダイト運動が起こった主な原因は、織機や紡績機の導入による手織り職人の失業でした。これまで手作業で行っていた織布の仕事が、機械によって短時間で大量に生産できるようになったため、多くの職人が仕事を失っていったのです。
職を失った職人たちは、自分たちの生活を奪った機械に怒りを向け、工場を襲撃して機械を破壊するという行動に出ました。1811年から1817年にかけて、特にイギリス中部の繊維工業地帯で暴動が多発しました。
ラッダイト運動に対し、イギリス政府は厳しい弾圧を行いました。
1812年、イギリス議会は機械破壊を死刑とする法律を制定しました。この法案により、ラッダイト運動は激しく弾圧され、多くの指導者が逮捕・処刑されました。
政府の強硬な姿勢によって、1817年頃にはラッダイト運動は終息しました。しかし、この運動は労働者の権利意識を高める契機となり、後の労働運動や社会改革につながっていきました。
ラッダイト運動は、産業革命によって職を奪われた職人たちの抵抗運動でした。工場労働の環境は過酷で、熟練の職人たちは賃金の低下や失業に苦しみました。その結果、彼らは機械破壊という形で抗議を行いましたが、イギリス政府の厳しい弾圧によって鎮圧されました。
しかし、ラッダイト運動は単なる破壊行動ではなく、労働者が自分たちの権利を主張する最初の試みでもありました。こうしてみると、産業革命は技術革新と労働者の闘いが交差する時代だったといえるのです。